御祭神・由緒

由緒

旧前野村の鎮守です。旧江戸川に面した神社(江戸川区江戸川1丁目41-4)で、都道308号柴又街道の終点にあります。

創建は不詳ですが、伝承によると、応永年間(1394-1428)頃の川の氾濫のあとに、鎌田村、今井村あたりの先に砂州ができ、その後もおよそ60年毎に大洪水がおこり、川は川筋を変えたり土砂を運んだりしてその場所に葦原が広がり、のちそれを切り開き葛西御厨(伊勢神宮・香取神宮の荘園)が広がり、祠が祀られたそうです。

室町時代末期~江戸時代初期になるとさらに開拓が進み。鎌田村の先の部分は集落が形成され前野村、當代島村となりました。当時の前野村は、およそ今の江戸川1丁目と南篠崎5丁目を合わせた以上の広さがありました。前野村の鎮守となったのはこの頃のようです。


当初、前野のお宮は、名称は第六天社(第六天宮)と呼ばれ前野村の鎮守(別当は不動院)でした。明治の神仏分離により、社名は前川神社となりました。

それ以後平成までの間、前野は村から町へそして江戸川1丁目(一部南篠崎5丁目)と地名を変えました。土地の人たちが普段の神社の維持運営を担い、役所手続きや祭祀は宇喜田村、上鎌田村、西小松川村の神社の宮司が兼務宮司として歴任し、前野のお宮を守ってまいりました。

そして平成の時代、柴又街道の延長により神社のほぼ中央を公道が2本横切ることになり、旧社殿を取り壊し社殿は再建され、境内もすべて再造営を余儀なくなされることになりました。この工事が終わったのが平成21年になります。

令和に入り、それまで祭祀をご奉仕してきた旧西小松川村道ケ島香取神社(現:新小岩香取神社)の禰宜が前川神社専任の宮司(本務宮司)として着任いたしました。

ご祭神について

前川神社ご本殿のご祭神は、素戔男尊(すさのおのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)・綾惶根尊(あやかしこねのみこと)、豊受姫神(とようけひめのかみ)です。

面足尊・綾惶根尊(神代七代のうち六番目に現れた神様)は、夫婦神(二神で一柱の神様)で、伊弉諾・伊弉冉尊(神代7代のうち七番目に現れた神様)をお産みになった神様として、縁結び・家内平穏・教育の象徴です。

素戔男尊は、天照皇大神宮の弟神(月読尊ともに伊弉諾尊の三貴子のうちの一柱)で大蛇退治、疫病除けなどの霊験があります。

豊受姫神(伊勢神宮の外宮に祀られている神様、當代稲荷のご祭神と同じ)は、食物を司る神様で、五穀豊穣・生業隆昌の御神徳があります。宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、大宜都比売(おおげつひめ)、保食神(うけもちのかみ)などたくさんの別名があります。

境内末社・その他

境内には、石造りの水神社が祀られ、平成の再造営のときも当時存在した歴代の御社を2社残しましたので、古いものには寛政七卯年(1795年)の石刻があります。

水神社には罔象女神(みづはのめのかみ)をおまつりしています。弥都波能売神、水波能売命、淤加美神と書くこともあり同じ神様です。罔象女神(みづはのめのかみ)はいわゆる水神様で生活水・農業漁業・航行などの水利の神、水難除けの神様です。

水神社

前川神社は、ほぼ同時期に創建された旧當代島村の當代稲荷神社(江戸川1丁目5-22)とも深いご縁があります

また、葛西御厨(かさいみくり)の頃からのご縁で旧称上鎌田神明社(南篠崎2-54-15:現在の南篠崎天祖神社)には、古い繋がりがあります。

當代稲荷神社

當代稲荷神社

南篠崎天祖神社

南篠崎天祖神社

前川神社の菊

前川神社の菊

柴又街道による境内陥入工事後、再造営された前川神社境内は砂利とアスファルトだけで地味で殺風景でした。それではお参りの方もさみしいと考え、私がまだ禰宜のころ大王松の鉢植え1対と菊の鉢植えをいくつか置いたことがはじまりです。当時私はまだ道ヶ島(中央4-5-23)からの出仕で水やりもままならず、片方の松が枯れ、菊も長くは持ちませんでした。


見かねた世話人の中から新たに大王松を1鉢補充してくださり数年後大鉢に植え替え、また菊栽培に秀でた方が、咲き終わりの花後、菊の根を取り、翌春根から苗を造り、育てた鉢をご自身の菊とあわせて神社に奉納、丹精をしていただけるようになりました。この菊は苗の時期から境内に瑞々しい潤いをおあたえくださいます。驚くべきは、毎年ちょうど七五三の日に満開の花をつけお参りされる方々にもお祝いの子供さん達からもたいへん喜ばれております。ひたすら心のこもった丹精のご奉仕の賜物とかたじけなく花を愛でさせていただいております。

宮司謹白

前野について

前野の渡し、東井堀について

現在、前川神社のすぐ東側を旧江戸川が北側を東井堀跡の公園の川が流れています。旧江戸川は昔、利根川または太日川とよばれ、篠崎より下流は蛇行しながら東から南西方向に向かい分流が無数にありそれが田畑、生活の水利に役立っていました。昔は、旧江戸川本流も川幅狭く水位も低く歩いて渡れたそうです。

さらに室町時代以前は、国の首都は京都ですし、国境が隅田川(墨田川)でしたので、それより東のこの辺りは下総国でした。国府台にあった市川城が下総の中心地でした。川向うの城下町市川、宿場町行徳との交流は盛んでした。室町時代末期(戦国時代)国府台の合戦ののち戦いに敗れた里見側の武家が川を越え移り住んで農家をはじめたり、北条側の武家が開拓した場所を与えられ、やがて自分でも田畑を耕し、名主などの村役人や祠掌となりました。現在の前川神社の氏子総代の先祖先達です。


江戸時代になると国境が隅田川(墨田川)から太日川(利根川、旧江戸川)に遷り、太日川の西側のこの辺りも武蔵国となり大部分が幕府直轄地となりました。そして利根川東遷の大工事に伴い周辺の無数あった水路・川筋は集約され江戸川にまとめられ、新たに小岩用水、東井堀、仲井堀、西井堀が整備されました。堀の幅・深さも十分あり、当初、農業用水・家庭生活水のほか水運の役も担っておりました。水流が集約された分、江戸川の水量も増しました。東井堀の終末近くは南篠崎天祖神社(上鎌田神明社)の横を通り、終点の前川神社(第六天社)横から旧江戸川に開口します。

前野の上流、小岩の宿に古くから渡し場(小岩-市川の渡し)がありましたがそこに江戸時代初頭、番所(のちに関所)が設けられ役人が常駐(4名)いたしました。江戸城守護のため、川に橋を架ける事はもちろん、人・物の往来は厳しく制限されていました。お触れを破った武家は切腹、庶民は磔(はりつけ)の極刑でした。川を挟んで田畑を耕作していた前野・当代の農家は困ったことになりました。しかし、葛西御厨には室町以降の身分の高い武家系農民が数多く暮らし、幕府の仕事に協力しながら農業に従事しており、前野には宿(しゅく)もなくのどかな農村で、またもともと御厨として伊勢神宮・香取神宮の御用もあり、幕府の番所の役人も農家にはそこまで厳しく取り締まることはいたしません。

前野の下流では、今井の宿に古くから渡し場がありましたが、ここは江戸から下総への一方通行の渡し場になり、しかも入り鉄砲に出女の禁があり、女性は利用できません。そこで女性が越境する場合や木っ端役人の厳しい検査を嫌う身分の高い者たちは、不便ではありますが、おもに農民にまぎれて浅瀬わたしで前野から川をわたる方法をとりました。ちなみに江戸時代一般の庶民が越境する主な目的は、成田山、香取鹿島などへのおまいりです。


明治以降、関所は廃止になり江戸川に橋が架かり便利になりました。明治38年に小岩の渡し、大正元年には今井の渡しが役目を終えましたが、橋がかからなかった前野あたりでは土地の貸船屋が、また対岸の行徳のべか船なども道路が整備されるまでの昭和の30年代まで臨時の渡しの役を自発的にしてくれていました。前野側の乗船堤は、江戸川小学校(江戸川1丁目1-16)の前あたりと造船所(東篠崎1-4)のあたりに2か所あり村人の生活に役立っていました。

前野の渡し、東井堀
前川神社

〒132-0013

東京都江戸川区江戸川1-41-4

TEL 03-5243-0392

FAX 03-5666-0708